老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き墳、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速やかにすべき事を緩くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。
人は、たゞ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん。
「昔ありける聖は、人来りて自他の要事を言ふ時、答へて云はく、「今、火急の事ありて、既に朝夕に逼れり」とて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因に侍り。心戒といひける聖は、余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、静かについゐけることだになく、常はうづくまりてのみぞありける。
老いぼれてしまってから、はじめて「仏の道の始業をするんだ」といって、時間がたっていくのを待っていちゃいけない。古くなったお墓の多くは、早死にした人のものである。思いもよらず疾病などして、たちまち「さよなら」を言わなくちゃならなくなったときに、始めて、過ぎてしまった失敗に気がついちゃったりする。失敗というのは言うまでもなく、早くやっておけばいいことをずるずると先延ばしにして、どうでもいいことはなぜだか迅速に対処してきた、人生に対して、過去を悔しく思うことである。やっぱり後悔は後にたたないんだね。
人間は、ただ、いつまでもこんな日が続かないことが身に迫ってくることを心に感じて、どんなときにも忘れちゃいけない。そうしたら、どうして、世の中のへべれけに混ざって濁ることも薄く、仏の道の修行に対して真剣になれないことがあるだろうか?
今は昔、とある偉い僧は、人がやってきて自分や他人の大事な事を話し出すと、こう答えた「いますぐにでもやらなくてはならないことがあって、すぐそこまで迫っているから、他人の話を聞いている暇なんかない」と。そうして、耳栓をして念仏を唱えながら、とうとう死んでしまうことができた、と禅林寺(※注1)に永観(※注2)が書いた『往生十因』(※注3)という文献で紹介されている。それから、心戒(※注4)という偉い僧は、あんまりにも、この世の中がはかなすぎると思って、じっと座っていることもなく、死ぬまでしゃがんでばかりいたそうな。
■注
(※注1 京都市左京区南禅寺町にある)(※注2 【ようかん】と読む念仏道場の主宰)(※注2 ヨウカンの著)(※注4 東北地方で行方不明になった)